

土人形について
土人形は、江戸時代末期から明治時代にかけて、日本全国各地で庶民生活に深く根をおろしていました。人形に込められた機知・格言・教訓・人物伝・信仰など、多くの子どもたちの教養となって、日本人の心の形成に大きな役割を果たしてきたのです。北信州に伝わる中野の土人形には、奈良家が制作する「中野人形」と、西原家が制作する「立ヶ花人形」があり、この両者をあわせて、「郷土玩具中野土人形」と呼んでいます。
郷土玩具中野土人形
中野人形奈良家
江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1828)に福寿草の商いをしていた初代奈良栄吉が、京都で伏見人形にこころをひかれ、人形型を譲り受け、さらには人形師を中野に招いて作り方を習い制作したのが始まりと言われています。中野人形の型は、伏見人形の型が多く、中には博多焼(博多人形)から型抜きしたものもあります。近年になって、奈良家オリジナル作品など種類は増え、現在は、教訓説話物や風俗物を中心に百数十種類の作品が制作されています。奈良家の人形は、小型で童子ものが多く、愛らしい顔描きが特徴です。



立ヶ花人形西原家
立ヶ花人形の産地である高丘地区には、良質の粘土が取れ、明治時代から屋根瓦焼が行われていました。明治30年頃、三河の瓦職人であった斉藤梅三郎が、中野の安源寺で瓦の製造をしていた西原己之作に、冬季間の副業として土人形制作を教えたのが、立ヶ花人形の始まりです。斉藤梅三郎は、歌舞伎に造詣深く、余技として土人形作者のために数々の歌舞伎人形の型を提供していました。西原家の人形は、こうした経緯から、歌舞伎ものや歴史上の人物ものが多く、現在約50種類余が制作されております。立ヶ花人形は、比較的大型のものが多く、色彩の鮮やかなのが特徴です。


土人形の源流伏見人形
全国各地で制作されている土人形の中で、伏見人形の系統をひかないものはないと言われており、土人形の元祖とされています。土器などを作っていた「土師部(はじべ)」の遊び心で人形を作り始めたのが始まりで、少なくとも江戸時代初期以前から制作されていたものといわれています。江戸時代後期の最盛期には、50戸余りの窯元で制作されていましたが、現在は、1軒のみとなっています。型の素材は、縁起物から動物に至るまで多岐にわたり、2000種ほど制作されています。

全国の各地の土人形を展示
土人形は縁起物や信仰の対象として、また子供の玩具として作られたり、飾られたりしています。素朴で温かみのある姿をした全国の土人形が各種展示されています。その一つ一つがそれぞれの土地の文化や歴史を伝えることで、今日まで多くの人に愛され続けているのです。
